纒向遺跡さて、前回は三輪さんの麓の纒向の江包の泥相撲のお話でした。実は、このお話ちょっとしたエピソードがあります。 古代の相撲といえば野見宿禰と当麻蹴速を思い浮かべる方は多いと思います。 野見宿禰は出雲から来たということですよね。 実は面白いことに、ここ江包の昔の地図を見てみると、この辺りは「出雲荘」という地名だったことがわかります。 それから、桜井の方にも「出雲」という地名があるのですよね。 桜井の人は野見宿禰が住んでいた出雲は桜井のことだと言う人もいるのだそうです。 私も、その考えには一理あるのではと思っています。 古墳の古さからいえ、出雲→大和→河内の順のように思えます。 出雲の神様は日本中に受け入れられてその土地の神様と融合して行ったのではないかと思うのです。 三輪山麓でも、出雲の神様が大和に入ってきて、大和の土着の神様とくっついたのではないかと思っているのです。 出雲の、大国主命が大和の土着のオオモノヌシの神様と。 そして、後に天皇家が中央集権化しようと思った時に、他の豪族と天皇家の差別化を図るために、大国主命の上に天皇家の神様である天照大御神を置く系譜を作ったのではないかと思ったりしています。 だから、出雲という地域は大和にもあったのではないかと思うのです。 私は桜井にあった出雲から野見宿禰が来たのではという説はとても面白いなと思うのです。 もちろん、これは私の勝手な想像です。 古代ははっきり分からないことが多いので、いろいろ勝手に想像できて楽しいですよね。 |☆。・:*:・゚'★,。・:*:・'。・:*:・゚'★,。・:*:・゚'☆。・:*:・゚'★,。・:*:・'。・:*:・゚'★,。・:*:・゚'☆ さて、話は元に戻しますね。 『お綱祭』を見たあと、纒向遺跡の方へ歩き出しました。 素盞鳴尊神社から、巻向駅へ向かう途中に古墳が四つあります。 東田大塚古墳→矢塚古墳→勝山古墳→石塚古墳→巻向駅のコースです。 まずは、東田大塚古墳です。 三世紀後半・末の古墳で、円休憩が70メートル突出部分が50メートルあまり、全長120メートル余りです。 箸中型に近いとのことです。 遺構が掘られています。 次は、矢塚古墳、勝山古墳、石塚古墳と続きます。 ↓矢塚古墳 ↓勝山古墳 ↓石塚古墳 石塚古墳の遺構の向こうに見えるのが「巻向駅」です。 矢塚古墳、勝山古墳、石塚古墳は三つがくっついて存在しています。 そして、そのちょうど真ん中に纒向小学校があります。 というか、古墳を避けて小学校を作ったというのが正解のようです。 小学校の校庭の下には「人」の字型に古代の水路が出てきました。 その水路は大和川の方から来ています。 そして、一方は箸墓に向かって続いていて、もう一方は市杵島神社の方向へ向かっています。 当時は、この辺りに水路が張り巡らされていて、主要な場所を結んでいたのだということです。 お水というのは生活の中で大変大事なものです。 そして、物を運ぶのにも水路を使ったのだと言うことです。 3世紀というと卑弥呼の時代か台与の時代でしょうか? 太古にこの辺りでは一体何があったのでしょうか? 謎は謎をよびますよね。 さて、↓は辻地区の祭祀土坑群が出土した場所です。 ここから、多くの土器や木製品などが出てきたようです。 土坑の中に納めら得ていた祭具は後の『延喜式』新嘗祭の条の器材と共通点が多いため、一種の「ニイナメオスクニ儀式」が行われていたものと考えられているのだそうです。 纒向は本当に古い時代の古墳です。 太古の昔のままの姿を残しているものもあるようです。 地元の方の努力は並大抵ではないとは思います。 最近色々、調査がなされているようですが、いろいろなことがもっといっぱい分かると良いですね。 でも、なるべく破壊されずにそのままの姿を後世に残していけたらななどと考えてしまいました。 ジャンル別一覧
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